クレサラ問題との出会い

これは、当事務所代表の古橋清二が、クレジット・サラ金問題にどのように出会い、もがきながら成長していった記録です。特に、若手司法書士諸君に読んでいただきたいと思います。

img_842802_14989802_1_2平成元年の司法書士試験に合格し、翌2年に司法書士登録した僕であるが、裁判業務はある程度やりたいという気持ちはあったが、まさか今のように数多くやることになるとは考えていなかった。そして、現在の裁判業務の多くはクレサラの債務整理であるが、当時は「クレサラ」なんて言葉も知らなかった。

もっとも、その頃は、司法書士で「クレサラ」という言葉を知っていた(問題の本質も含めてという意味で)のは、ほんの一握りではなかったたろうか。

僕のクレサラ問題との出会いは、そんな開業したての間もない頃だった。

僕は、その頃、4坪ほどの事務所を借りていた。東側に窓があり、夏は朝から太陽の光が降り込んで、朝事務所に行くとメチャクチャ暑かった。
事務員も雇っていなかった僕は、ガンガンに冷房をかけて事務所で本を読んだり調べごとをしていることが多かった。

今考えてみると、なんとか生活できるだけの報酬を得られる事件もあったので、実にのんびりした生活だった。

ある日、例によって事務所でポツンとしていると、近所の弁護士さんから電話があった。
「今度、借入金を返済する人がいるから、担保の抹消をしてくれませんか」

弁護士さんもいっしょに行くので、僕もいっしょについていって、抹消書類の確認をして欲しいということだった。

数日後、弁護士さんと、債務者と私の3人は、1階から細い階段を2階まで上り、しばらくの間座って待たされた。

何やら怪しい事務所だった。事務所の中には黒板の予定表があり、ところどころに「裁判所」と書いてあった。「いったい、裁判所に何の用事があるんだろう」僕はそう思いながら、債権者が現金を確認するのを待った。そして、担保の抹消書類をその場で預かることができ、事務所に一旦帰ってから抹消登記の申請をした。

それはそれで、どうということなく終わった。


弁護士さんと債務者とで、金融会社に担保抹消の書類をもらいに行った数日後、僕は、いつものとおり、4坪ほどの事務所でポツンとしていた。すると、突然、あの債務者がお姉さんと一緒に事務所を訪れてきたのだ。

「どうしましたか」「登記はあの日に申請しましたが、まだ終わっていないのですが」と声をかけたところ、債務者の口から出てきた言葉は意外だった。

「まだ借金があるんです・・・・」

「この前返済した以外も借金があったのね。じゃあ、弁護士さんにそのことを話した方がいいんじゃないの?」と聞いたところ、「あの弁護士さんは、あれで最後だって。忙しくて手が回らないらしいの」ということだった。

さて、困った。まだ借金があるって言ってるし、どうも払うお金もないみたいだ。お金がないからこうして事務所に来たんだろうな。借りたお金は返さなければならないし、さて、どう対応したものか・・・。

「まあ、とにかく話を聞かせてよ」ということにしたが、頭の中は「どうすりゃいいんだ」という言葉が響き渡っていた。ともかく、書面に当たるのが鉄則だから、「まず、持っている書類があったら見せてください」ということになった。

実は、その債務者はほとんど目が見えない。お姉さんの腕を掴んで歩くほどだ。労災でほとんど失明したらしい。だから、書類はお姉さんが持っていた。

この前行った金融会社以外の伝票など、書類は数種類あった。地元の個人から借りたと思われる契約書みたいなものもあった。そして、とどめは、裁判所から届いている電話加入権の差押命令だった。

「なんだコリャ。いったい何をどうしたらいいんだ」
正直、そう思った。だけど、決して逃げようということは考えもしなかった。とにかく、物事を整理してみないとどうすべきなのかはっきりしないが、最終的には何らかの裁判手続きになるという直感はあった。

実は、僕は、裁判手続についてはちょっとだけ自信があったのだ。


ここで、ちょっと脱線して、「実は、僕は、裁判手続についてはちょっとだけ自信があったのだ。」という理由についてお話ししておきたい(少し前置きは長くなりそうだが)。

僕は、会社に勤めながら司法書士試験に合格した。会社でも法律関係の仕事が中心で、まずまずおもしろかったし、既に結婚して子供もいたので、受験のために会社を辞めるということはあり得ない選択だった。

僕の父も司法書士をしているが、登記専門である。受験時代、父に、「仕事を継ぐから受験期間養ってくれ」という意味のことを1回だけ言ったことがあるが、「受かるかどうかもわからないのに、そんなことできるか」と一蹴され、それ以来、僕は女房子供を養いつつ絶対に勤めながら合格するんだ、と心に決めていたのだ。

だから、試験に合格しても、僕には全く実務経験がないわけだ。「父が司法書士だから」という理由だけで、ある程度実務をわかっているだろうという見方をされることもあったが、本当に、頭でっかちのズブの素人だったのである。

ちなみに、会社で法律関係の仕事をしていたと言っても、会社法分野や契約関係が多かったので、登記や裁判の実務をしていたわけではなかった。

司法書士試験の結果発表の翌日、僕は、上司に「退職します」と告げた。それまで、試験勉強をしていることなど全く話していなかったし、残業もし、そつなく仕事をしていたので、きっと驚いたことだと思う。

それでも、お世話になった会社なので、12月の株主総会の実務も行い、引継をして、翌年1月末で退職した。退職の数日前、社長が、秘書や僕ら総務の数人をホテルの昼食に誘ってくれた。秘書(と言っても男性で、ある程度年も行っている)の方が、帰り際に「古橋さん、今日の食事は古橋さんのためですよ」と耳打ちしてくれた。嬉しかった。

1月31日、会社の最後の出勤日は有給休暇をもらった。僕は、その日から始まる関東ブロック新人研修会に参加するため、新幹線浜松駅のプラットホームに立っていたのだ。「本当にこれでよかったのか」とも考えたが、「もう引き返すわけには行かない」という気持ちの方が強かった。関東ブロック新人研修会は小田原で行われたが、珍しく大雪だった。

研修は5日間ぐらいだったと思う。登記手続、裁判手続など、バランスよくカリキュラムが組まれていた。講師陣は、司法書士が裁判事件をやることは決して多くはないが、今後は裁判事件に積極的に取り組んで欲しいという意味のことを言っていた。僕はまんまとその話に熱くなった。

研修会場では、司法書士業務用パソコンや書籍などの展示・販売も行われていた。パソコンの販売員だったと思うが、セールストークも交え、「研修では裁判事務、裁判事務って言っていますが、現実には登記をどれだけやるかですからね」という意味のことを小声で僕に言った。その場では「ふ~ん」と答えたが、研修最後に主催者に提出するアンケートには、「そんなことを言う業者は研修の趣旨に合わない。締め出すべきである」と、生意気なことを書いて提出した。

さて、研修の中で一番ショックを受けたのは「司法書士の歴史」と題する講義であった。


関東ブロック新人研修の「司法書士の歴史」は、第1講が群馬の澤浦司法書士、第2講は当時静岡大学、その後九州大学に移られた大出先生だった。

司法書士に合格すれば、これからは一定のステータスを持って仕事ができ、お金も稼げると考えていた僕に対し、これらの講義は僕の妄想を見事に打ち砕くものだった。

司法書士の歴史は、明治5年、太政官無号達によって制定された「司法職務定制」にはじまる。第10章「証書人代書人代言人職制」第42条に「代書人」の規定があり、それが司法書士の前身であるといわれている。当時、代書人は、文字の読み書きもできない庶民に代わって書類を書くという、まさに代書から始まったのだという。なお、代言人とは現在の「弁護士」であり、証書人とは現在の「公証人」の前身であるといわれている。

このように、同じルーツで始まった代書人と代言人であったが、代言人が日の当たる存在であったとすれば、代書人は、日陰、ともすると、三百代言などと呼ばれて虐げられ、取り締まられた歴史そのものだったと言うのだ。

大正8年の司法代書人法制定により、代書人の名称は「司法代書人」となり、昭和10年の司法書士法制定により名称は「司法書士」となった。

一方、代言人は弁護士として自治を獲得した。代書人は、完全な自治を獲得することはできず、常に誰かの監督に服するという歴史を歩んだ。そして、今でも法務局に監督されているのだ。

そうした歴史の中で、弁護士会と監督官庁との狭間にありながら、先陣の凄まじいまでの熱意と行動力で、司法書士は少しずつではあるが自治を得ていった。

僕は、司法書士が、そんな厳しい歴史を歩んできたことも知らずに、ステータスだのなんだのと浮ついたことを考えていたわけだ。

僕もこれから司法書士で飯を食っていく以上、そうした先輩方の苦労を無にすることなく、司法書士がさらに専門性の高い職能として進化していくことに少しでも貢献したいと考えた。

でも、まだ試験に合格したばかりの僕に何ができるのか。できるとすれば、現場に生きる司法書士として、持ち込まれる事件を誠実にこなしていくことぐらいしかないのではないか、と考えた。関東ブロック新人研修会の最大のテーマは、裁判事務もちゃんとやりましょう、ということだった。だから、裁判事務に対する心構えは、まず、そこで固まったと言っていいだろう。


前回、「代書人」という名称を書いたが、今では「代書人」という職業はない。でも、お年の方の中には、僕のことを「代書屋さん」とか「古橋代書」とか呼ぶ方もたまにいる。また、「代書料はいくらですか」なんて言われることもある。

驚いたのは、隣の県である愛知県のちょっと山間部(それでも市である)の司法書士事務所に電話したときに、「はい、○○代書です」と電話に出たことだ。「代書」という言葉が脈々と受け継がれているんだな、と思った。

司法書士の中には、「代書」と呼ばれることに嫌悪感を持つ人もいるようだ。法的判断を伴う仕事をしているのに、単に言われたことを書いているタイプライターのように呼ばれ、何か、蔑称のように感じるからだろうか。

僕は、自分から僕のことを「代書人」と言うことはないが、「代書」と呼ばれても、それが明らかに蔑称としてでなければ特に気にならない。なぜかと言えば、僕は、「代書人」のイメージを伴淳三郎として描いており、案外そのイメージが嫌いではないからだ。

たぶん、伴淳三郎が代書人か司法書士の役でドラマをやったことがあると思うが、そのイメージが強く残っているいるのだと思う。眼鏡を少し下にズラして、「たかが代書のくせに何をいってやがる」と息巻く権力者に、下から見上げるようにして「できねえものはできねえんだ」と自分の信念を曲げない一徹なイメージがあるのだ。別に立派な職業ではないかもしれないが、法というモラルを拠り所に生きているんだ、ゼニカネで動く世界じゃないんだ、というような頑固さのイメージがあるのだ。

話はかなり脱線したが、とにかく、関東ブロックの新人研修が終わり僕は岐路についた。

前にも話したように、僕の父も司法書士である。だから、父の事務所にそのまま入ってしまえば僕にとってもいろいろな意味で楽だったかもしれない。でも、僕は敢えて父とは別の場所で、別の事務所を構えることにした。別に父と仲が悪いということではなく、僕は僕の力で自分の城を築きたかったのだ。

ところが、僕が研修から帰ると、僕のいない間に僕の当面の身の処し方が決まっていた、というか決められてしまっていた。僕は、父と仕事のつきあいのある弁護士さんの事務所に丁稚に行くことになっていたのだ。

父は登記しかやらない司法書士であるにもかかわらず、「これからの司法書士は裁判事務だ」と、どこかで聞いたようなことを言って、3カ月の期間限定で僕を法律事務所に行かせるように仕向けたのだ。


僕が丁稚にいった法律事務所は、元裁判官のU弁護士の事務所だった。3カ月という期間限定で、研修ということだったので、給料は月5万円。もっとも、僕は鍛えてもらうだけで満足で、給料なんていらなかったが。

最初の1週間ぐらいは、ほぼ1日中、朝から晩まで法律事務所に行ったが、U弁護士も裁判所などに出かけることが多かったので、以後は午後2~3時頃で終わり、司法書士の開業の準備をしたりするようになった。

法律事務所で僕がやったことは、ほとんど起案だった。まず、U弁護士から、資料がいくつか渡され、「それで訴状をつくってください」という具合だ。司法書士試験に受かったとはいえ、訴状の起案能力があるわけではない。関東ブロック新人研修に行ったからって、訴訟関係の書面を少し勉強した程度で、まったく作り方がわからない。そこで、いろいろな書式集を参考にして、見よう見まねで作る毎日だった。

一応、要件事実(法律関係の発生、変更、消滅などの変動を生じさせるために必要とされる法律上の要件に合致する事実とでもいうところか)も確認しながらの作業であったが、生の紛争はそんなシンプルなものではなく、複雑なものであった。

ひとつの事案について、2~3日かけて書面を起案する。「先生、できました」とU弁護士に提出すると、翌日ぐらいに真っ赤に添削されて悲惨な状態に変わり果てた書面が返ってくる。その繰り返しだ。

僕は、どうしても、書面の内容、訴状で言えば「請求の趣旨」「請求の原因」から考え始めてしまうのだが、それ以外の部分、たとえば、管轄裁判所がどこなのか、事件名はどのように付けるか、訴訟物の価格はどのように計算するかなども非常に大事なことであることを教えられた。

事案の内容はさまざまであったと思うが、別にサラ金関係のものはなかったと思う。唯一あったとすれば、免責申立書の作成であった。

免責申立書の作成については、「免責の申立書を作ってください」と破産事件の記録を渡されたが、まず、どうしていいのかわからなかった。「免責」という言葉自体は知っていたが、破産手続きの全体の流れのアウトラインも知らなかった僕は、破産法にザッと目を通すことから始めなければならなかった。

免責申立書はB5の用紙1枚の簡単なものであるということがわかったのは、丸一日かけて調べてからだった。

こうして、短期間ではあったが起案に明け暮れる日々が続いた。

しかし、この短期間で、僕の起案能力が伸びたかというと、決してそんなことはなかったと思う。むしろ、それとは違うところに大きな収穫があった。


僕が法律事務所で丁稚をしたことで得た最大の収穫は、浜松の裁判所の物理的な構造がわかったことだ。「な~んだ」と思うかもしれないが、これって実は重要なのだ。

浜松の裁判所は、ひとつの建物に、簡易裁判所、地方裁判所、家庭裁判所が同居している。しかも、たとえば地裁でも、訴状等を受け付ける訟廷受付、書記官室、破産係、執行係、執行官室、会計など多くの窓口がある。

何回か、裁判所に書類を持って行ったり、U弁護士が担当する事件の裁判を傍聴したりするうち、どの窓口ではどんな事件を扱っているのかということが何となくわかってきた。

民事訴訟法は略して民訴(みんそ)などとも言われるが、「眠素」(みんそ)と言われるほど条文はおもしろくもなんともない。だから、司法書士試験の受験生の間でも、刑法、民事執行法と並んで嫌われている法律じゃないかと思う。なぜおもしろくないかと言えば、民事訴訟法は手続を定めた法律であり、訴訟等の具体的なイメージなしで民事訴訟法を勉強するのは苦痛以外の何者でもないからだと思う。

ところが、実際に裁判所に足を運んでみたり、訴訟関係書類を作ってみる(起案だけではなく、提出部数をそろえて、必要により印紙や郵券を準備することを含む)と、「ああ、こういう流れになっているから民事訴訟法は必然的にこう定めているんだ」とわかることが多々ある。

僕は、ウチの事務所で研修する研修生には、いつもこう言う。「民訴は体で覚えろ」と。やりもしないのに講釈を言っているから進歩がないわけだ。やってみれば、民訴は体に馴染んでくるわけだ。

こうして、裁判所の物理的な構造や、実務的な民事訴訟手続感覚がある程度わかったということが、この短い丁稚の期間の最大の収穫であった。なぜお化けが恐いかと言えば、相手の正体がわからないからだ。裁判事務も同じだ。相手(裁判所)のことがわかれば、別に恐いことはないわけだ。

僕は、こうして裁判所に対する抵抗感がなくなった。しかし、登記実務も全くやったことがなかった僕は、逆に、法務局に対する抵抗感はなかなか払拭することができなかった。

僕が、裁判事務にちょっとだけ自信があったという理由はここにあるのだ。


担保抹消を依頼された方から、「他の借金で困っている」と相談を受けたところまで話をして脱線してしまった。話を本題に戻そう。

まず、その方(以下、Hさんと言うことにしよう)からお話を聞いていて、おかしなことに気がついた。それは、Hさんが借りているお金の利率だ。Hさんは、お金を借りる際、年利40パーセント前後の率で利息の契約をしていたのだ。

僕は、司法書士試験受験の時、まあいろいろな法律を勉強しなければならなかったが、その中に利息制限法という法律があった。これは、金銭の貸借に関する利息・損害金の上限等を定めている法律である。

利息制限法の定める上限利率を紹介すると、当時の法律では、次のようにされていた。

 

第1条 金銭を目的とする消費貸借上の利息の契約は、その利息が左の利率により計算した金額をこえるときは、その超過部分につき無効とする。
元本が十万円未満の場合 年二割
元本が十万円以上百万円未満の場合 年一割八分
元本が百万円以上の場合 年一割五分

第4条 金銭を目的とする消費貸借上の債務の不履行による賠償額の予定は、その賠償額の元本に対する割合が第一条第一項に規定する率の二倍を超えるときは、その超過部分につき無効とする。

 

なお、現在では、第4条の「二倍」が「一・四六倍」に変更されたため、損害金については次の率が上限となる。

元本が十万円未満の場合 年29.2%
元本が十万円以上百万円未満の場合 年26.28%
元本が百万円以上の場合 年21.9%

いずれにしても、Hさんの年40%という利率は、当時の利息制限法の上限利率を超えているわけだ。どうして40%という利率がまかりとおるのか。

僕は、それまでもサラ金の広告などを見て、書かれている利率が利息制限法を超えているなあ、と何気なく思ったことはあったが、現実の相談を突きつけられて、まず、ここから紐解かなければならなくなったわけだ。

平成2年当時、まだ、こうしたサラ金問題に関する書籍などはほとんど書店に並んでおらず、利率の問題という「いろは」の「い」から調べなければならなくなった。


こうして僕は。サラ金関係の法律を「いろは」の「い」から調べる必要性に迫られたわけだが、利息制限法と出資法との関係は案外すぐにわかった。そして、これらの法律をつなぐ糊みたいな条文である貸金業規制法43条も、細かな理解はともかく、なるほど、そういう仕組みになっているのかと、次第にわかってきた。

しかし、出資法を見ていて、どうしてもわからないことがあった。それは、電話担保金融の特則である。

当時、出資法の上限利率は年40.004%とされていたが、特例として、日賦貸金業者は109.5%、電話担保金融は54.75%とされていたのだ。日賦貸金業者については、集金に手間がかかるなどの理由はわからなくもないが(だからと言って、こんな馬鹿げた金利が容認されること自体異常だが)、電話担保金融の特例はなぜ設けられたのかわからない。無担保無保証で貸付をするサラ金は40.004%が上限で、電話加入権を担保に取るのに54.75%の金利が容認されることがわからない。

なぜそこに興味を持ったかというと、Hさんの借入先のひとつに「マルフク」という電話担保金融があったからだ。

そこでわかったことは、「電話加入権質に関する臨時特例法」という変な法律の存在だ。
その中で、「電話加入権を目的とする質権を取得することができる者は、国民生活金融公庫、中小企業金融公庫、沖縄振興開発金融公庫、商工組合中央金庫、信用金庫、信用協同組合及び政令で定めるその他の金融機関並びに信用保証協会及び事業協同組合に限る」(第2条)とされている。だから、マルフクの場合、債権者である株式会社マルフクではなく、「マルフク事業協同組合」が電話加入権を担保に取っているのだ。

では、事業協同組合で担保をとっていると何がいいことがあるかと言えば、「質権者が電話加入権を目的とする質権の実行をする場合においては、裁判所は、質権者の申立てにより、質権者に当該電話加入権の換価をさせることができる。ただし、質権者が第二条本文に規定する者以外の者である場合は、この限りでない。」(第11条第1項)とされているのだ。

一般的には、差押の手続きは「民事執行法」で規定され、裁判所で競売が行われるのに、電話加入権について、こんな変な法律を作って、裁判所が換価命令を出すことによって、実質的には債権者が自分で換価してしまうことを許しているのだ。

おまけに、「質権者は、前項の規定による換価をする場合においては、当該電話加入権について鑑定人の評価を経ることを要しない。ただし、裁判所の特別の指示がある場合は、この限りでない。」(第11条第2項)とされる。これでは、やりたい放題ではないのか?

こりゃ、何かがおかしい。何か別の力が働いているとしか思われなかった。

NTTの本社に「これ、なんでこうなってるの?」と問い合わせまでしてみたが、どうも変人扱いされたみたいだ。

当時、「マルフク」という看板はいたるところにあった。由美かおるや水原弘のキンチョー(だっけ)や、大塚昌子(だっけ)のボンカレー、大村昆のオロナミンCの看板よりもはるかに多いことに以前から気がついていた。「一体何の会社だろう」と思っていたが、サラ金だとは知らなかった。
なお、今、マルフクという会社自体は残っているが、ほとんどの貸金業務はCFJというサラ金に譲渡してしまっている。

さて、マルフクの差し押さえをどうするか。これが問題であった。

話を聞くと、マルフクからの借り入れについては、実は、Hさんが借りたものではないということだった。労災で目が不自由になってしまったHさんは、それが原因で友人が離れていってしまい、そんな寂しさの中で知り合った男に頼まれ、実印などを渡してしまったというのだ。

だから、借り入れにしても、電話を担保に入れる契約(質権設定契約)についても、Hさんの意思で行ったものではないという。

電話加入権の差し押さえは質権にもとづく担保権の実行であるから、担保権設定の契約成立を否認することができれば、担保を解除することができる。

もし、今、この相談を受けたとしたら、僕はどのように考えるだろうか。
おそらく、担保設定契約を否認することは難しいと考えるだろう。なぜなら、民事訴訟法では、Hさんの実印が書面に押されている以上、その印影はHさんの意思によって押されたものと推定され、その文書はHさんの意思によって作成されたと推定されてしまうからだ。このような推定は「二段の推定」と呼ばれている。Hさん所有の印鑑が押されている以上、その文書は、何らかの形でHさんの意思にもとづいて作成されたものではないかということだ。「印鑑は飛ばない」わけだ。

もちろん、「推定」にすぎないから、それを覆すだけの事実を立証することができれば推定は覆る。これが「推定」と「みなす」の違いだ。

しかし、僕は、当時、そんなことは全く思いも及ばなかった。とにかく、Hさんの意思による借り入れではない。Hさんの意思による担保設定契約ではないのだ。そういう意味では「乱暴」というか、「若気のいたり」だったかもしれない。

まず、執行裁判所に対し「執行異議」(だったと思った)を申し立てた。そして、簡易裁判所に対し、債務不存在と電話加入権の質権抹消請求の訴状を提出した。Hさんの名前を使った名義冒用だという理由だ。

当時のことであるので、もちろん本人訴訟である。目の不自由なHさんのために、そのお姉さんを補佐人に申請しておいた。結果は、あえなく勝訴。相手方の欠席判決だった。

しかし、これも今考えればちょっと恐ろしい。もし僕が相手方の代理人だったら、「二段の推定」を主張し、Hさんにつきまとっていた男の代理権を持ち出して争ったことだろう。そうなると、原告としては非常に歩が悪い裁判になってしまう。なにしろ「つきまとっていた」わけだから、原告本人かその男の尋問をすれば、代理権を立証されてしまう可能性が高いと思われるからだ。

そういう意味ではラッキーだったかもしれない。この裁判で負けていたら、僕のその後の生き方は変わっていたかもしれない(ちょっと大袈裟かな?)。

次の問題は、Hさんが地元の個人金融から借りている件だ。
個人金融といっても、どうも貸金業登録はしていないようであった。しかし、利息を計算してみると、利息制限法を超過していることは明らかだった。しかし、まだ借りてから数回しか返済していなかったので、利息制限法で計算しても、20万円ぐらい債務がある状態であった。

この20万円はお姉さんが用意するという話だった。

さて、どうするか。

お姉さんとHさんとで利息制限法を主張しても、相手は、不動産業の看板も出している個人金融だ。素人の主張が通るような相手ではない。

もちろん、旧司法書士法の時代だ。僕には代理権はない。

迷った。


個人金融業者に対する僕が思いついた、当時のつたない知識にもとづいた対策は供託だった。供託をしてしまえば、弁済義務を履行したことになる。

しかし、問題は、供託をするためには、一旦は弁済の提供をして受領が拒否されなければならない。

そこで僕は考えた。僕は、Hさんとお姉さんの3人で、その個人金融のところへ返済に行くことにした。利息制限法による計算書も作ってお姉さんに持たせた。「これで支払います」とお姉さんに言ってもらって、お金を渡してもらった。

もし、「おまえ、司法書士のくせに何しに来た」などと言われたら、「もしも受領しなければ供託をするので、供託の代理人として受領拒否の事実を確認に来た」と言うつもりだった。内心ドキドキしていた。

金融業者は怒りまくっていた。「恩を忘れたのか」「登録すりゃあ、ちゃんと利息はとれるんだ」

そんな罵声を浴びながら3人で帰った。意外にあっさりと解決した。
Hさんは他にも何件か借金があったと思う。でも、理由はわからないが、どうやって解決したのか今では記憶がない。

その後、しばらくして、最大の問題が起こった。

Hさんが家出をした。また、例の男のところに行ってしまったらしい。
お姉さんの最大の心配事は、また不動産を担保に入れられて、どこかからお金を借りられてしまうのではないかということだ。

その不動産とは、Hさんと初めて合って担保の抹消をした、あの自宅の不動産のことだ。この自宅は、相続でHさんとお姉さんの共有になっていた。これは、Hさんの家庭では唯一と言っていい財産だ。

お姉さんは、「何とか家を守りたい。あの子(Hさん)も、もう少し時間がたてば自分が何をしているのかきっとわかる筈」と嘆く。

僕は、咄嗟にHさんの共有持分に対する仮差押を思いついた。お姉さんはこれまで、Hさんのためにさんざんお金を立て替えている。この求償権を被保全権利として仮差押ができないだろうかと考えた。

しかし、これとて、今にして思えば利益相反行為である。それまでHさんのために仕事をしてきたにもかかわらず、今度はHさんの債権者の依頼によってHさんの不動産を仮差し押さえしようとするのであるから。

ところが、当時は、そんなことおかまいなしだった。そういう教育もされていなかったし、そうした法律上の問題も思いつかなかった。「Hさんの不動産を仮差押えするにしても、それはお姉さんの意を汲んでHさんの財産を守るためだ」。それしか頭になかった。


さて、お姉さんの依頼により、Hさんの不動産の共有持分を仮差押えすることになったわけだが、新人の僕は仮差押えの手続きをやったことがなかった。むろん、仮差押えには「被保全権利の存在」と「保全の必要性」が必要なことぐらいは当然に知っていたが、実務としてやったことはなかった。

しかし、裁判事件を受任している人ならわかると思うが、訴状を書くのも仮差押申立書を書くのも、はたまた支払督促申立書、内容証明郵便に至るまで、実は、文書の「骨」はいっしょなのである。「骨」というのは(前にも書いた)要件事実のことであるが、要件事実を知っていれば、こうした裁判関係書類を書くことはそれほど苦労することではないと思う。だから、仮差押の申立書を作成するのに特に苦労したという印象は残っていない。

仮差押えのような保全処分の事件では、申立書に、「被保全権利の存在」と「保全の必要性」を疎明する資料の一部として本人の報告書(陳述書のようなもの)を添付する扱いが広く行われている。

この報告書の作り方も一律ではなく、聞き取りをしてパソコンで報告書を作って本人に署名してもらうパターンと、聞き取り後、こちらである程度の原稿を作って、それを参照してもらって、全文を本人の自筆で作成してもらうパータンがある。

僕の場合、最近は、ほとんど前者の方法で行うが、当時の僕は、「すべて本人の自筆の方が迫力ある文書として裁判官の心証形成に有利に働くのではないか」と考えていた。

だから、僕は、お姉さんに電話をして、「いいですか。仮差押えの申立書には報告書というものを添付するのが慣例になっています。今から、報告書に書いて欲しい内容をお話しします。ゆっくり言いますから、どこかにメモをしてください。そして、あと○時間ぐらいで僕は帰りますから、その途中でご自宅にお寄りします。それまでに、レポート用紙か便箋に清書しておいてください」と伝え、「報告書、私はHの姉です。私が今回の申し立てに至った経緯は・・・・・」とゆっくり話し始めた。

電話の向こうでは、お姉さんが僕の言葉を復唱し、お姉さんの旦那さんがそれを何かに書き取るという作業が続いた。「この字でいいのか」などと旦那さんが確認しながら、三人の共同作業は続いた。

「それじゃあ、あとで寄りますから」僕はそう言って電話を切り、別の仕事を終えてHさんの自宅に向買った。僕は地図を頼りにHさんの自宅に到着した。

こじんまりとした木造の家だった。周りはもう暗くなっており、その家の中で起きている出来事とはまるで無関係のように静まり返っていた。

そして、玄関の戸をガラガラッと開けたとき、僕の目の前には驚愕すべき光景が広がっていた。


僕が仮差押えの申立に必要な報告書を預かるため、Hさんの自宅に伺い、玄関を開けたときの光景は今でも忘れない。そこには、中型の冷蔵庫でも入りそうな大きなダンボール箱が横たわっていた。そして、そこに、「報告書、私はHの姉です。私が今回の申し立てに至った経緯は・・・・・」と、つい数時間前、僕が話したことが黒いマジックで、大きな字で書かれていたのだ。

「こんなものしかなかったもんですから・・・」お姉さんの旦那さんは、照れ笑いをしながら言った。お姉さんもその隣でほほえんでいた。

これは独りよがりであるが、お姉さんたちの僕に対する期待の大きさが、その大きなダンボールの映像として、僕の旨に突き刺さった。
「そうなんだ。この人たちは、僕に、こんなに期待しているんだ。今、頼りにできるのは僕しかいないんだ」そう思うと、僕の胸は熱くなった。

僕は、ここのところ、毎年、新人研修の講師として呼ばれるが、「みなさんが裁判事務を避けていたら、困った人はいったい誰に相談すればいいんでしょう。それは国民に対する裏切り行為ですよ」と、きつく言う。その時は、いつもこのダーンボールのことを思い出しているのだ。

仮差押さえは首尾よく完了した。数ヶ月後、Hさんは自宅に帰ってきた。そして、お姉さんと二人で事務所を訪れた。Hさんは「目がさめた。もうあんなことはしない」と言った。お姉さんは涙を流していた。

自宅には仮差押の登記がされていたが、二人の希望で、当分、仮差押の登記はそのままにしておくことになった。

こうして一連の事件は終了した。

後日談であるが、それから約10年後、事務所にHさんとお姉さんが訪れた。そろそろ仮差押えの登記を抹消して欲しいという話だった。Hさんは、あの事件後、マッサージの資格をとり、今はあんまさんをしていると言った。お姉さんは「私は結婚して苗字が変わったんですよ」と微笑んだ。そうか、あの時の旦那さんとは、当時は入籍していなかったんだ、と思った。

僕にとってあの事件は10年前に終わっていたが、Hさんたちにとっては、10年後に仮差押え登記を抹消して、ようやく事件が終わったんだ。


こうして、新人司法書士である僕に依頼したHさんの事件は終わった。訴訟事件としていくつかの手続きを行ったが、いずれも金額としては極めて低額な事件であった。しかし、これらの事件は、僕に対し様々なインパクトを与えてくれた。

そのひとつは、利息制限法を超える利息が世の中でまかりとおっていることに対する驚きである。それまで、サラ金とは全く無関係に生きてきて、利息と言えば利息制限法しか知らなかった僕にとって、これは衝撃だった。あまりに社会を知らなさすぎた。

そして、次のインパクトは、世の中には、Hさんのように、必ずしも合理的ではない行動をとる人たちが厳然として存在するということだ。この思いは、その後、債務整理事件をある程度受任するようになって、ますます強く感じるようになっていった。

人が多重債務に陥る原因はまさに十人十色である。しかし、一定程度の割合で次のような特調がある。

まず、慢性的な生活費不足である。日本人の中流意識はいったいどこから来るのだろうか。会社に勤め、アパート代や住宅ローンを支払い、車のローンを支払いながら家族を養い、毎月の貯金はせいぜい5000円という生活の、どこが中流なのか。
50歳をすぎて、同じ会社に10年以上も勤めながら、給料は手取り15万円なんて人はざらにいる。新卒大学生の初任給よりも少なく、それで家族を養なわなければないない状況のどこが中流なのか。

次に、学歴の低さである。相談者のほとんどは中卒である。それ故、収入が高く、安定した職業に巡り会う機会が少ない。

また、利息ということについて理解できない人たちがたくさんいる。とにかく、毎月いくらを支払えばいいのか、それだけを気にしている。多重債務者は、利率の高低よりも、毎月いくら支払えばいいのかということを重要視する。利息について、競争原理は働いていない。

そして、こうした人たちが一定程度存在していることは間違いない事実である。低所得者層などと一口ではくくることができないが、そうした層が間違いなくある。

僕は、それまで、そうした層の人たちとはほとんど無縁の生活をしていた。高校は進学校、大学もそこそこの大学を出て、地元優良企業に就職。司法書士試験に合格し、開業した。そして、初めて、こうした人たちの生活に向き合うこうになったのだ。

でも、本当にそれまでそうした人たちと無縁であったかと言えば、よくよく考えてみると、そうでもないことに気がついた。

小学校の頃を思い出した。クラスに40人程度の生徒がいた。クラスの中には、勉強ができるやつ、勉強はできないが足が速いやつもいた。小学生とは思えないほど絵のうまい奴もいた。校区に裁判所があったので、今考えてみれば裁判官の子供だった奴もいた。校区に拘置所もあり、そうした子供を預かる施設もあったので、そういう子供たちもいた。女の子の家に遊びに行ったとき、生まれて初めてヨーグルトを食べされられ「まずい」と思いながら「この家は金持ちだなあ」と思った子もいた。学校を休んでばかりいるので、帰りがけに、毎日のように給食のパンを持っていってやった奴もいた。

こうして考えてみると、それぞれの家庭はいろいろな事情を抱えていたかもしれない。でも、クラスのみんなで支え合い、お互いを助け合って卒業していった。

そうしたクラスが、まさに社会の縮図であったとすれば、先ほどの一定の層の人たちも、この社会でいっしょに生きている仲間であるはずである。では、そうした人たちがもっと知識を得て、金利の感覚を研ぎ澄まし、賢く生きようとしないからその人たちが悪いのだろうか。

そういうことはないであろう。勉強しない奴が悪い、金利のことがわからない奴が悪い、そういう奴は自己防衛ができなくてもやむを得ないという考え方があったとしたら、それはファッショというべきだ。

そうした一定の層の人たちが厳然として存在するということを前提にして考えなければ、この世の中は成り立たないのである。だから、そうしたことを前提に僕のできることをするというのは当然のことであると考えたのである。


Hさんの事件も終わり、新人司法書士であった僕の事務所は再び静寂を取り戻した。おかげで、勉強する時間だけはたっぷりあった。

その頃から、大先輩であり、全国でも、裁判事件を取り扱う有名司法書士として活躍していた清水市のSさんが、新人である僕に、よく声をかけてくれた。毎日のように電話で話をするうち、それぞれ抱えている裁判事件について、その書面をファックスでやりとりしてお互いに勉強しよう、とまで言ってくれた。そして、実際に、裁判書類をやりとりして、相互の意見を交換するようになった。

Sさんは、若い司法書士の兄貴分みたいな存在で、お酒もいっしょに飲む機会が多かった。しかし、Sさんは、いつも腰が痛い、腰が痛い、と言っていた。あっちこっちの病院や整体などに通っていたようだ。

そんなある日、Sさんから僕の自宅に電話あった。

「古ちゃん、俺、入院するよ」
「え?」
「ガンだよ、ガン。もう歩けないってさ」

僕は愕然とした。
「そんなこと言われても・・・・」
僕は言葉が続かなかった。

僕は、すぐに他の先輩司法書士何人かに電話して、「Sさんからこんな電話があったんだけど・・・」と相談した。すると、みんな、「そうなんだよね」とSさんの病気のことを知っており、皆一様に心配していた。「なんだ、結構、あっちこっちに電話してるんだ」と、少し救われた気持ちになった。

そんな時、「サラ金の借金で困っています。破産をしたいんだけど・・・」という相談が来た。債務整理事件はHさんの事件以来であり、しかも、破産事件は初めてだった。もちろん、破産について勉強したこともないし、今のように実務本やノウハウ本はない。

僕は対処方法がわからず、「とにかく、お持ちになっている契約書などを全部見させていただけますか?」ともっともらしいことを言って取り敢えずお引き取り願い、後日、僕から連絡することにした。

さて、どうしようか、本当に破産できるのだろうか。何から手をつければいいんだろうか。僕は途方に暮れた。

頼りのSさんは入院中である。Sさんに聞くわけにもいかない。


それまで、裁判関係ではファックスのやりとりという方法でかわいがっていただいたS司法書士が入院してしまい、一方で、僕は破産をしたいという相談を受けて、途方に暮れていた。

もっとも、それ程忙しくなかった僕がSさんを見舞いに行くのにそれ程日数はかからなかった。Sさんの入院している病院へは高速道路を使って1時間ぐらいだった。

「ガンだよ、ガン」僕はその言葉を思い出しながら病室のそっとドアを開けると、無精髭を伸ばしたSさんが、「誰?」というような顔をしてこちらを向き、僕だと気がつくと、「おぅ」と声をかけてくれた。

Sさんは、「腰に腫瘍ができて、神経を圧迫している」「今検査をしているんで、腫瘍が悪性か良性かがわかる」「悪性だとちょっとやばい」というような話をしていた。別に落ち込んでいるという様子でもなく、いつもの話のテンポだった。

僕は、破産の依頼についてどうしたらいいものか聞いてみようと思ったが、なにぶん、見舞いに来ているわけで、Sさんに負担をかけてもいけないと思った。たしか、負債総額と手取収入程度を話して意見を聞く程度だったが、Sさんの「結構収入あるなあ」という回答をもらっただけで、それ以上のことは入院しているSさんに聞くことはできなかった。

実際のところ、相談者は運送会社に勤め、手取りで50万円近くの収入があった。負債は300万円ぐらいだったと思う。

結局、僕は依頼を断った。Sさんの「結構収入があるなあ」という言葉を僕なりに都合よく解釈し、「今の状態は支払不能ではないんじゃないの?」と言って依頼を断った。でも、本当は、自分の手におえないんじゃないかという、自信のなさから出た行動だった。

僕は、しばらく落ち込んだ。本当に僕にできなかったのだろうか。僕がどうしようか悩んでいる間、相談者はどういう気持ちで僕の回答を待っていたのだろうか。あの相談者は今頃どうしているんだろうか・・・。

Sさんの腫瘍は良性だった。手術して腫瘍を除去すると言うが、その手術も、ちょっと間違えば神経を傷つけてしまうという。しかし、Sさんはそんないくつもの苦難を乗り越え、手術も成功し、退院した。奇跡的だった。奇跡と言うより、Sさんの執念と言った方がいいかもしれないが。

若い司法書士の有志で、さっそく、Sさんの退院祝いが行われた。お座敷の宴席というのがいかにもSさんらしい退院祝いだった。


Sさんが退院して間もなく、静岡市で静岡県青年司法書士会の役員会が行われた。僕も消費者問題対策委員として参加していた。

役員会では年間の事業計画や、各担当の事業執行について話し合いが行われていたが、どちらかというと和やかな雰囲気で話し合いが行われていた。消費者問題については、委員長から「多重債務の問題に対処するため、クレサラ110番を行いたいが、まだまだ会員の資質向上が必要である。破産法の勉強からはじめ、じっくり準備したい」という趣旨の発言がなされ、議場はおおむねその方向に動いていた。

その時、前触れもなくS司法書士が役員会に顔を出した。そして、しばらくその議論を聞いていたS司法書士が突然発言をした。
「何をのんびりしたことを言っているのか。君たちが勉強をしている間に人が死ぬぞ!」

議場は、それまでの和やかな空気から一変して張りつめたものとなった。
S司法書士は、実際に受任している事件について、依頼者である女性がどのような立場に立たされているか、Sさんの事務所にたどり着くまでにどのような人生を送ったか、前は海、後ろは山、その間に挟まれた東海道線の線路の上で、一人で何を考えていたかなど、驚くべき話を訥々と話し始めた。

役員会は、Sさんの話に圧倒され、何も決まることなく散会した。

Sさんは僕に言った。「古ちゃん、青司協が何もやれないのなら個人でやろう」

数日後、僕を含め、数人の有志がSさんの事務所に集まった。Sさんはコピー機をフル稼働して、集まった司法書士に資料を配布し、丸1日、サラ金問題の本質、破産手続の概要などについて講義した。充実した1日だった。

Sさんは、程なくして、研修会の趣旨を綴った「破産手続に関する研修会のご案内」と題する文書を起案し、僕に送ってくれた。僕は、研修会場を予約し、県内の会員全員にその案内を発送した。

平日の夜7時から、呼びかけ人は司法書士会でもなく、青司協でもない。Sさん個人という研修会に、県内から約80人の司法書士が集まった。

まだ体調が万全ではないSさんだったが、2時間の講義はそれを微塵も感じさせないすばらしいものだった。Sさんは、「安易な債務者責任論から脱却せよ」と何度も繰り返した。借りたお金は返すというのが契約の常識である。しかし、サラ金問題というのはそんなに簡単に割り切れるものではない。金利や取り立ての問題。官僚や大手金融機関の役員が天下っているサラ金。そこに融資をする銀行・生保・損保。そこでターゲットにされる社会的弱者の存在。これで契約は対等か。借りた者は、自分の命を絶って生命保険で返済することまでをも考えなければならない。それでも、本当に返済できない者だけが悪いのか。

会場は静まり返ってSさんの話に耳を傾けた。Sさんの講義は本質を突いたものだった。

研修会の司会を務めた僕は、最後にこう言って研修会を閉会した。
「2カ月後、電話相談として、クレサラ110番をやります。大勢の方に参加していただきたいと思います」


病み上がりにもかかわらず熱い講義をしたSさんにつられ、クレサラ110番開催を宣言した僕は、次の準備に入った。

まず、個別の論点についての研修が必要であった。また、電話相談の模擬演習もする必要があった。クレサラにほとんど取り組んだことがない会員ばかりであり、僕とて若干やったことがある程度という状態だったので、いろいろなところから資料を取り寄せながら研修カリキュラムを作った。

ちょうどその頃、ある雑誌で、ある地方の青年司法書士会がクレサラ110番を実施したという記事を目にした。執筆者は、主催者の言葉として、「電話相談のうち、具体的対処が必要と思われる相談は弁護士を紹介した。電話口の向こうから聞こえる債務者の叫びに胸が詰まる思いだった」という趣旨のことが書かれていた。

僕はこの記事を読んで「何を言っているんだ」という思いと同時に情けなさを感じた。

「具体的対処が必要と思われる相談は弁護士会を紹介した」? 何を言っているか。なぜ自分たちで対応しようとしないのか。そんな110番だったらやらない方がましではないか。しかも、こんな記事を書くぐらいだから、主催者はこの結果に満足しているに違いない。

「債務者の叫びに胸が詰まる思いだった」? そういう感受性も大事かもしれないが、あまりにも一般的・傍観者的な感想ではないか。法律家であれば、違法な金利が跋扈している問題認識や、そうした営業をしている貸金業者を法的にどのように評価するのかなど、もう少し突っ込んだ分析が必要ではないか。

僕は、この記事をみんなの前で批判した。僕たちが行う110番は、こうした110番ではない。僕たちの110番は、僕たちの手による現実の救済を目的としている、そのことを徹底的に意思統一した。

Sさんの講演に約80名の司法書士が集まったものの、その後、研修会を重ねるにつれ、40名、30名と参加人数は減少していった。

でも、僕はそれでもかまわないと思った。「僕もクレサラに関わっている」というポーズだけの司法書士はいらない。110番の趣旨に本当に賛同してくれる人だけが残ればいい。たとえそれが10人であろうともかまわない。僕はそう考えて研修を続けた。

そして、こうした僕たちの動きに対し、NHKが関心を示した。


僕たちのクレサラ110番の準備に興味を示したNHKは、Sさんや僕に対して取材を始めた。今やNHKの看板女性アナウンサーになっている彼女は、サラ金の問題については全く知識がなかったようで、僕たちの説明の一つ一つの説明に驚きを示した。

Sさんの依頼者である男性の家にも行って、サラ金の取り立ての電話にもテープを回した。彼女は、僕たちの事前の説明によってかなりの恐怖心を持ったようで、取材現場で電話が「リーン」と1回鳴っただけで、2メートルぐらい飛び上がって逃げた(ように見えた)。

こうして、NHKの取材も入って、僕たちの110番の準備もますます熱が入った。しかし、それと同時に、研修を重ねる度に参加人数は少しずつ減っていった。

そして、いよいよ110番の前日を迎えた。僕たちは、夕方静岡に結集し、最後の研修として、どこから手にいれたか忘れたが、全国クレジットサラ金問題対策協議会の事務局長である木村達也弁護士のビデオを見ることにした。

「本当に大丈夫なのか」、「僕たちにどれだけのことができるのか」、研修会場は、どちらかというと不安の空気が支配していた。

と、その時、遅れてSさんが到着した。そして、瞬時にその空気を察して言葉を発した。

「腹をくくれ」

僕たちはハッとした。最初の研修から始まって、20人程度まで人は減ってしまったが、僕たちは十分な準備をした。このサラ金問題に正面から取り組むんだという思いだけでここまで来た。もう前に進むしかないのだ。

翌日、110番は午前10時からの電話による相談であったが、9時すぎからテレビの取材が数社駆けつけてきた。もちろん、NHKも来た。

夕方5時まで、相談は23件だった。中には、家族数人が自殺に追い込まれたという緊迫した相談もあった。

今、こうした110番を行うと、1日あたり50件以上の相談が寄せられるが、初めての試みで23件の相談を受けることができ、とりあえずホッとした。

こうして、僕たちの初めてのクレサラ110番は終了した。


当時の司法書士のクレサラに対する事件処理は、かなり厳しいものがあった。なぜなら、当時はクレサラに取り組む司法書士はほとんどおらず、クレサラ業者も司法書士がクレサラに取り組むことに違和感を持っていたからだと思われる。

問題は、相談を受けて受任した後、どうやってクレサラ業者の取り立て行為を止めるかであった。当時の貸金業規制法、大蔵省通達は、「弁護士が受任した旨の通知、または裁判手続きをとった旨の通知を受けた場合には正当な理由なく取り立てをしてはならない」とされていた。

つまり、弁護士の受任通知がクレサラ業者に到達すれば取り立て行為は禁止されるが、司法書士の受任通知では取り立て禁止効は発動しないのである。

これに対し、「この通達に司法書士が入っていないのはおかしい」と主張する司法書士も少なからずいた。しかし、僕はそれはおかしいと思っていた。なぜなら、この通達が発出された背景として、昭和50年代の、いわゆる「サラ金地獄」の時代に、債務者の縦になって活動したのは弁護士であり、司法書士が、皆無とは言わないが、対応していなかったという事実がある。だから、「司法書士」が入っていないのは当然のことだからだ。

また、弁護士が受任通知を出せば本人に対する取り立てが制限される理由は、弁護士は本人の代理人として交渉が可能であり、債権者は弁護士を相手に交渉をすることができるからだ。

しかし、当時は裁判書類作成権限しか持たない司法書士の受任通知で取り立てが禁止されることになれば、債権者にとっては交渉窓口も閉ざされてしまうことになってしまう。

いずれにしても、当時、司法書士としてどのように取立行為を止めるかということが問題であったが、僕たちは、大蔵省通達に「裁判手続きをとった旨の通知」という規定があることを見逃さなかった。そこで、相談を受けたら、なるべく急いで破産等の裁判手続を申し立てるというスタイルを作っていった。そして、申立をしたあとに、裁判所で付けられた事件番号等を併記して、「裁判手続をとった旨の通知」を送るようになったのだ。

また、こうした申立は、書類は司法書士が作るにしても、本人申立であることには変わりはないので、本人名の通知書に司法書士が書類作成者として氏名を並記するというスタイルを確立していった。


当時は、相談を受け、そこで方針を協議し、破産の申立が必要だとということなれば必要書類を指示して、早急に破産申立の準備に入る。添付書類を持ってきたら半日ほど面談をして、翌日には破産の申立をする。そこまで、相談を受けてから早ければ2日で申立が完了する。そして、債務者名で、債権者に対し破産申立をした事実を通知し、その書面に、書類を作成した司法書士として今後の手続きに協力して欲しい旨司法書士が奥書しておく。

そうした、きわめてハードな作業を繰り返し、とにかく裁判所に事件を係属させて取立行為を止めるわけだ。もちろん、費用などいただけないことも慣れっこになってしまう。

そして、そうした通知を債権者に郵送すると、たとえば10社の債権者に通知すると、翌日には、ほぼ10社から事務所に電話がかかってくる。電話の内容はと言えば「司法書士でもこういう業務をするんですね」なんて嫌味をいうのはまだかわいい。

「いったい何の資格でこんなことをやってるんだ」「非弁(弁護士法違反)じゃないか」

ほとんどこの手の電話だ。
だいたい、この手の電話に対する対応は、性格によって2通りに分かれるようだ。
一つ目は、「司法書士の業務は司法書士法2条で定められており、そこに裁判所に提出する書類の作成が司法書士の業務のひとつとして定められており・・・・・」と、淡々と説明するタイプ。
二つ目は、「非弁とは聞き捨てならん。人を犯罪者呼ばわりするのなら、骨になるまで闘うぞ(コノヤロー)」と臨戦態勢に入るタイプ。

もちろん僕は前者だが、いずれにしても、当時はそうした凄まじい攻防を1日中やっていなけれぱならなかった。

それは、ある意味、非常に辛いものがあった。相談を受けて厳しい時間の中で申立まで行うのが辛いということではなく、非弁の誹りを受けながらこうした仕事を続けるということ自体、非弁で懲戒になることは決してないと確信していても、嫌なものである。

サラ金業者が「非弁」をネタに攻撃してきた事件は、僕を含め、いくつも記憶に残っているが、あまりにシリアスすぎてここに書くことはできない。

しかし、そうした事よりも、まさに被害者としか言いようのない目の前の人たち、それも、業として裁判書類作成をしている者に助けを求めてくる人たちに手をさしのべること、そして、書類作成という限定的な方法ではあるが身を挺してサラ金業者に対峙するということの方が大切なことだったのだ。

その時代を通ってきた僕たちは、それなりに法を研究し、対処法を自ら考え、ひとつひとつ乗り越えてきたという意味においては幸せなのかもしれない。また、その時代をくぐり抜けてきた仲間を見ると、一様に打たれ強く、精神的にタフである。

今のように様々なマニュアルが用意された中でクレサラをやるのが法律家として必ずしも幸せとは思えないのである。